女神は突然に。
ヴォーカリストの条件として、藤岡はひとつ譲れないものがあった。タイ人であることだ。タイでの活動を見据えているのもある。それよりも、地域も文化も言葉も違うミュージシャンと運命を共にしたら、まだ見ぬ世界が見えてくるはず。未知への期待が藤岡を駆り立てたのである。
しかし、タイ人とのコネクションは皆無。正真正銘、ゼロからのスタートだった。インターネットで情報を収集し、facebookなどでアプローチして人脈をたどる日々。いつ成果が出るかは分からない。でも、やるしかない。不安と焦燥と戦い続ける彼に、ある日、転機が訪れた。大阪市内で開催されたタイの音楽フェスを視察した時のことだ。ステージに立つミュージシャンと直接コンタクトを取りたい。もちろんアポなしだったが、セキュリティを説得して楽屋に潜入。この日のために用意した名刺をミュージシャンや関係者に配り、想いを伝えた。しかし現実は厳しく、興味を示す人はほとんどいなかった。どんどん選択肢がなくなっていく。焦る藤岡は、視界に入る人々に手当たり次第声を掛けた。すると、運営ボランティアとして参加していたタイの学生が「知り合いに当たってみる!」と手を差し伸べてくれたのである。そこから新しい人脈が生まれ、たどり着いたのがナットというタイ在住の女性だ。“もうダメかもしれない”と諦めかけていた夏の終わりに、突如、予期せぬ希望の光が差し込んできた。
しかし、歌声を聴くまでは安心できない。場合によっては、非情な決断をすることも藤岡は考えていた。だが、彼の不安は杞憂に終わる。タイから送られてきたデモテープに収録されていたナットの歌声が、想像以上のものだったからだ。彼女自身もミュージシャンとしての活動に一層力を入れたいと考えており、まさにWIN-WIN。2014年5月から始まったメンバー探しの旅は、2014年11月、ひと段落したのである。
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運命の3月30日
しかし、バンドを結成しただけで万事解決ではないことは、藤岡自身、百も承知。プロミュージシャンとして活動する彼は、人の心をとらえ、動かす音楽を創造する厳しさと難しさを何度も経験していた。ナットとのコミュニケーションもskypeを通じてのみ。早急にタイへ飛び、生の歌声を聴き、絆を深める必要がある。同時に、ライブハウスもブッキングしなければいけない。そのためにはアピール用のデモテープもつくらなければ。もちろんバンドのポテンシャルとカラーが分かるように。新たなタスクが一瞬で山積された。
まず、タイに飛ぶ日程を決めよう。藤岡、小浦、藤田、ともに国内における自身の活動がある。スケジュールを合わせて全員で行くのは無理だ。ならば、デモの音源をつくり、現地で収録しよう。藤岡は、単身でのタイ渡航を決めた。日時は2015年3月30日。それまで1分1秒も無駄にするわけにはいかない。3人は自身のスケジュールをチェックして、少しでも会える時間を見つけたらすぐ全員でスタジオに籠もった。作曲は藤田。アレンジの面で2人もアイデアを出す。度重なるセッションを通じて3人の音が絡み合い、少しずつ進化していく。その過程で「ここにナットの歌声が融合した瞬間を想像したら、たまらなくワクワクしたと同時に、大きな不安に駆られました」と藤岡は話す。これも、曲作りの醍醐味と恐ろしさを知る彼ならではこその感情だ。この曲が生きるか死ぬかは、タイで全て明らかになる。バンドの運命を背負って、3月30日、藤岡は日本を発った。デモテープ、ブッキングしたいライブハウスのリスト、現地で会うタイの音楽シーンを知る要人の資料をカバンに詰めて。